ミルコ・デムーロ、6年間の苦闘の真相とは?凋落の理由と「見えざる手」を徹底分析

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近年、トップジョッキー、ミルコ・デムーロ騎手が語った「激白」は日本競馬界に衝撃を与えました。JRA史上初の外国人騎手として頂点に立った彼が、なぜキャリアの凋落を経験しアメリカへ渡ったのか。本記事では、客観的データや象徴的な出来事から、彼の告白の裏にある6年間の苦闘と、日本競馬界の構造的な問題を多角的に分析し、その真相に迫ります。

(元ネタはこちら:https://tospo-keiba.jp/breaking_news/64394)

この記事の要点

  • ミルコ・デムーロ騎手が近年の成績不振と、それに伴う精神的苦痛を告白し、競馬界に衝撃を与えた。
  • 2019年を境に、ライバルのC.ルメール騎手との成績が大きく乖離し、キャリアは明確な下降線をたどった。
  • かつて「天才の閃き」と称賛された騎乗スタイルが、成績低下と共に「無謀」と批判されるようになり、負のスパイラルに陥った。
  • サートゥルナーリアの主戦降板に象徴される、騎手エージェント制度や有力馬主組織の影響力が、彼のキャリアに影を落とした。
  • アメリカ移籍後は成績が回復傾向にあり、日本競馬のシステムとの適合不全が不振の一因であった可能性を示唆している。

第1章:頂点の捕食者(2015年~2018年):輝きの基準点

デムーロ騎手の近年の苦闘を理解するためには、まず彼がキャリアの絶頂期にどれほどの輝きを放っていたかを確立する必要がある。この時期の成績と騎乗スタイルは、後の凋落との鮮烈な対比を生み出す「ビフォー」の姿として、分析の絶対的な基準点となる。

統計的支配

2015年にJRAの通年騎手免許を取得すると、デムーロ騎手は即座にその才能を爆発させた。初年度にはドゥラメンテとのコンビで皐月賞・日本ダービーの二冠を達成し、いきなりJRA賞(最多賞金獲得騎手)を受賞する快挙を成し遂げた。彼の勢いはとどまるところを知らず、キャリアの頂点と呼ぶべき2017年には、年間171勝を記録。特筆すべきはその内容で、勝率は驚異的な25.7%、3着以内に入る複勝率は53.1%に達し、JRA賞(最高勝率騎手)のタイトルを獲得した。翌2018年も年間153勝、勝率23.9%というハイレベルな成績を維持し、ルメール騎手と共に日本競馬界のトップに君臨する「二強時代」を築き上げた。この時代、彼はネオユニヴァース(2003年)とドゥラメンテ(2015年)で2度のダービー制覇を果たすなど、大舞台での勝負強さも際立っていた。

称賛された騎乗スタイル

この全盛期において、彼の騎乗スタイルは「天才の閃き」として称賛の的であった。特に、レース中盤からポジションを押し上げる大胆な「捲り」は彼の代詞であり、常識を覆す奇襲戦法としてファンを魅了した。国際的な競馬メディアも彼の騎乗を高く評価しており、特にヴィクトワールピサとのコンビで見せた有馬記念とドバイワールドカップでの勝利は、彼の「恐れを知らない大胆さ」と「大レースにおける現実主義」の証明として語り継がれている。これらのレースで彼は、ペースが遅いと見るやセオリーを無視して馬を動かし、自らレースの流れを作り出すことで勝利をもぎ取った。彼自身がアメリカの伝説的騎手ジェリー・ベイリーに憧れて身につけたと語るこの「アメリカンスタイル」は、馬とのリズムとバランスを重視し、勝負どころで躊躇なく動く決断力を特徴とする。

この輝かしい成功は、しかしながら、未来の葛藤の種を内包していた。デムーロ騎手のキャリアの頂点は、高いリスクを伴う直感的な騎乗スタイルに支えられていた。このスタイルは、騎手自身の絶対的な自信と、その要求に応えられるだけの能力を持つ馬の存在があって初めて成立する。華々しい勝利を生み出す一方で、その戦法は本質的に不安定であり、一度歯車が狂い始めると修正が難しいという脆弱性を抱えていたのである。勝利という結果が出ている間は「天才」と称賛されたそのスタイルが、成績が下降線をたどり始めると、やがて「無謀」という批判に晒されることになる。その評価は、彼の勝率とあまりにも密接に結びついていた。

第2章:大いなる分岐(2019年~2024年):二人の騎手の統計的物語

2019年を境に、デムーロ騎手のキャリアは明確な下降曲線を描き始める。この変化の深刻さを客観的に示すため、彼と全く同じ条件でJRAの通年免許を取得した唯一無二のライバル、クリストフ・ルメール騎手との年度別成績を直接比較する。このデータは、本レポートが分析する「6年間の苦闘」の動かぬ証拠となる。

年度騎手勝利数騎乗回数勝率連対率 (2着内率)複勝率 (3着内率)
2019M. デムーロ9157615.8%28.1%41.5%
C. ルメール16465025.2%44.2%56.2%
2020M. デムーロ6554212.0%21.2%31.4%
C. ルメール20469729.3%47.6%58.2%
2021M. デムーロ7553514.0%25.2%37.8%
C. ルメール19979425.1%41.7%54.7%
2022M. デムーロ7255712.9%26.6%39.5%
C. ルメール10953620.3%35.1%48.3%
2023M. デムーロ445647.8%16.8%27.1%
C. ルメール16564925.4%43.8%56.2%
2024M. デムーロ122355.1%10.6%17.9%
C. ルメール10039525.3%46.6%60.0%

注:データはnetkeiba.com等の公開情報を基に作成。2024年の数値は報告書作成時点のものです。

この表が示す現実は残酷なまでに明確である。「大いなる分岐」とでも言うべき現象が、二人のキャリアパスに生じたのだ。ルメール騎手が年間最多勝利や最多賞金獲得といったJRA賞の常連であり続け、勝率25%前後という驚異的なアベレージを維持したのに対し、デムーロ騎手の成績は坂を転げ落ちるように悪化していった。2019年にはまだ勝率15.8%とトップクラスの数値を保っていたが、翌2020年には12.0%に低下。一時的な持ち直しを見せた2021年を経て、2023年には勝率が7.8%と1桁台にまで落ち込み、2024年にはついに5.1%という、かつての彼からは想像もつかない数字にまで沈んだ。勝利数、連対率、複勝率、全ての主要指標において、彼のパフォーマンスは一貫して下降を続けた。この統計データは、彼の「6年間の我慢」が単なる主観的な苦悩ではなく、客観的な数字に裏打ちされた厳しい現実であったことを物語っている。問題は、なぜこのような劇的な分岐が起こったのか、その要因を解明することにある。

第3章:批判の解剖学:スタイル、スタート、そして精神的重圧

デムーロ騎手の成績低下と並行して、かつて称賛された彼の騎乗スタイルへの評価は一変し、厳しい批判の対象となった。この批判の集中砲火が、彼の告白にある精神的な消耗の直接的な原因となった。

「出遅れ」というレッテル

デムーロ騎手自身が「『スタートがよくなかった』とか そんな批判ばかりで、正直つらかったです」と語るように、彼のスタート技術は頻繁に問題視された。JRAの公式データで全騎手の出遅れ率を比較した具体的なランキングは公開されていないものの、競馬ファンの間やメディアにおいて「デムーロは出遅れる」という認識、すなわち「レッテル」が強力なナラティブとして定着してしまった。レース序盤の位置取りが勝敗を大きく左右する現代競馬において、このネガティブなイメージは馬主や調教師の信頼を少しずつ蝕んでいったことは想像に難くない。

諸刃の剣となった「捲り」

成績が下降するにつれて、彼の代名詞であった「捲り」もまた、その評価を180度変えた。かつては天才的な閃きとされた中盤からの大胆な仕掛けは、次第に「無謀なギャンブル」や「騎乗ミス」として断じられるようになった。その象徴的な例が、ある年のオークスでの騎乗に対してファンから寄せられた「謎の中途半端捲り」という辛辣な批判である。恐れを知らない即興性と見なされていたものが、結果が出なくなると、計画性のない独りよがりな騎乗と見なされるようになった。彼の最大の武器は、最大の弱点へと姿を変えたのである。

スケープゴート化と精神的消耗

デムーロ騎手の告白の核心は、この絶え間ない批判がもたらした精神的な苦痛にある。「『最後まで追っていなかった』なんて次々と言われるようになって、疲れ果ててしまうんです」という彼の言葉は、敗戦の責任を一身に背負わされるスケープゴートとしての苦悩を物語っている。この状況は、典型的な負のスパイラルを生み出した。すなわち、成績不振が批判を呼び、その批判が彼の自信を奪い、自信を失った騎乗がさらなる成績不振を招くという悪循環である。彼はこの罠から抜け出せず、「この6年間、ずっと落ちていく一方でした」と、出口のないトンネルの中にいるような感覚を吐露している。

この現象の根底には、デムーロ騎手の直感的で感情を重視する「アメリカンスタイル」と、現代日本競馬、特にトップクラスの厩舎が求めるデータ重視でリスク回避的なアプローチとの間の根本的な衝突があった。日本の競馬界では、レース前の緻密な作戦と、調教師の指示を忠実に実行することが高く評価される傾向にある。しかしデムーロ騎手は、ストップウォッチの数字よりも「馬の気持ちを一番に考えて乗っている」と公言しており、これが時に陣営のプランとの齟齬を生む可能性があった。ノーザンファームに代表されるような巨大組織は、極めてシステマティックなアプローチを好み、計画を正確に遂行できる予測可能性の高い騎手を重用する。彼の「捲り」に代表されるような即興的な騎乗は、変数(リスク)を最小限に抑えたい巨大資本のステークホルダーにとっては、時に負債と映ったのかもしれない。したがって、彼の凋落は単なるフォームの喪失ではなく、彼の根源的な騎乗哲学と、日本競馬システムの主流派閥が持つ気風との間の適合不適合が深刻化した結果であったと言える。彼らがデムーロ騎手への支持を弱めるにつれて、質の高い馬に乗る機会は減少し、彼のリスクの高いスタイルが成功する確率はさらに低下していった。

第4章:見えざる手:エージェント、同盟、そしてサートゥルナーリア事件

デムーロ騎手の凋落を単なる個人の不振として片付けることはできない。その背後には、JRAの内部に存在する、強力かつ不透明な構造、すなわち「見えざる手」の存在があった。騎手のキャリアを左右するエージェント制度と、特定の馬主グループの絶大な影響力は、彼の運命を大きく揺さぶった。

騎手エージェントという権力

JRAにおける「騎乗依頼仲介者」、通称「騎手エージェント」は、単なるスケジュール管理者ではない。彼らは有力馬への騎乗機会を巡って馬主や調教師と交渉する「パワーブローカー」であり、その人脈と影響力は騎手のキャリアを決定づけるほどの力を持つ。この制度が物議を醸すのは、有力エージェントの多くが競馬専門紙の記者を兼務している点にある。これは情報の非対称性を生み、公正性の観点から利益相反の可能性が指摘されている。強力なエージェントの後ろ盾がなければ、どれほど才能のある騎手でもトップクラスの馬に騎乗することは困難になる。

ケーススタディ:サートゥルナーリアの「ハートブレイク」

この構造的な力学が最も残酷な形で現れたのが、名馬サートゥルナーリアの主戦騎手交代劇である。この一件は、デムーロ騎手が直面した困難の縮図と言える。

  1. 育成者としての功績:デムーロ騎手は、デビュー前のサートゥルナーリアの才能を見出し、新馬戦からG1ホープフルステークスまで無傷の3連勝へと導いた。彼はこの馬と強い絆を築き、その将来を誰よりも信じていた。
  2. 突然の乗り替わり:しかし、クラシックシーズンを目前にして、馬を所有するキャロットクラブ(ノーザンファーム系列のクラブ法人)は、主戦騎手をデムーロ騎手からクリストフ・ルメール騎手へと交代させることを発表した。公式な理由は、デムーロ騎手が別のお手馬であるアドマイヤマーズとの兼ね合いを考慮した、というものであった。
  3. 水面下の力学:この公式理由は、多くの競馬関係者にとって「建前」と受け止められた。ルメール騎手は競馬界で最も影響力のあるエージェントと契約しており、ノーザンファーム系列の事実上のナンバーワン主戦騎手であった。この乗り替わりは、陣営が最も重要なクラシックレースに向けて、最も信頼する騎手に最強の馬を託すという戦略的な決定であり、それはデムーロ騎手の序列が低下したことを公に示す冷徹な通告でもあった。
  4. 「ハートブレイク」の決定打:結果として、ルメール騎手はサートゥルナーリアを皐月賞制覇に導いた。皮肉なことに、その後の日本ダービーではルメール騎手が騎乗停止処分を受けたため、代役の騎手で臨んだサートゥルナーリアは敗北を喫した。「またいつかコンビを組める日を待ち望んでいた」と語っていたデムーロ騎手にとって、この一連の出来事は単に有力馬を失った以上の意味を持っていた。それは彼のプライドを深く傷つけ、自らのキャリアのコントロールを失ったことを痛感させる、まさに「ハートブレイク」な出来事だったのである。

このサートゥルナーリア事件は、日本の騎手エージェント制度がキャリアの勢いを増幅させるエンジンとして機能する様を浮き彫りにする。ルメール騎手のような上昇気流に乗る騎手には、最高の騎乗機会が優先的に集められ、成功がさらなる成功を呼ぶ「好循環」が生まれる。一方で、デムーロ騎手のように一度スランプに陥った騎手に対しては、有力な騎乗馬が組織的に他の騎手へと振り分けられ、脱出がほぼ不可能な「悪循環」を加速させる。デムーロ騎手自身の当時のエージェントが、アメリカ行きを考えた彼に対し「今アメリカへ行ったら、今残っている数少ない仕事さえ失ってしまうぞ」と警告したというエピソードは、彼の元に良質な馬が集まらなくなっていたという事実を裏付けるものだ。エージェント制度は中立的な仲介者ではなく、騎手間の序列を形成し、固定化する積極的な役割を担っている。それはトップに立つ者を守り、つまずいた者から容赦なく機会を奪い去る。このシステムの中で、一度失った信頼と勢いを取り戻すことは、至難の業なのである。

第5章:アメリカン・リセット:異なるゲームへの逃避

追い詰められたデムーロ騎手が選んだカリフォルニアへの移籍は、単なるキャリアの転換ではなく、精神的かつ専門的な再生を図るための必要不可欠な「逃避」であった。

日本を離れた理由

彼の動機は、自身の言葉によって明確に語られている。「日本ではもう以前のようにたくさん乗ることができなくなり、努力しても結果につながらない状況に疲れてしまった」。彼は、自身の勝率の低さを理由に良い馬に乗せてもらえないが、良い馬に乗れなければ勝率を上げることはできない、という「キャッチ22」(どうにもならないジレンマ)に陥っていると感じていた。「どうやって勝率を上げろと言うんだ?」という彼の叫びは、この絶望的な状況からの脱出願望を物語っている。

スタイルに適合したシステム

アメリカで、デムーロ騎手は自身の労働意欲が報われる環境を見出した。日本では晩年にほとんど機会がなかった朝の調教で多くの馬に騎乗することに喜びを感じており、これが体重管理や、何よりもスポーツそのものとの繋がりを再確認する上で大きな助けとなっている。また、速いペースで流れることが多いアメリカのレース展開は、彼の直感的でアグレッシブな騎乗哲学とより親和性が高い可能性がある。

パフォーマンスによる才能の証明

アメリカでの彼の成績は、近年のJRAでの不振が嘘のような復活を遂げている。移籍後わずかな期間で99戦10勝を挙げ、勝率は10.1%、複勝率は39.4%に達した。これは、2024年のJRAでの成績を遥かに凌駕する数字である。既にG2サーファーガールステークスを制覇するなど重賞勝利も記録しており、彼の卓越した技術が失われていなかったことを明確に証明した。

取り戻した精神的な平穏

彼はアメリカでの生活について、「ただ人生を楽しみたい」「もうこれ以上自分を追い詰めたくない」と語っている。この移籍は、キャリアのリセットであると同時に、メンタルヘルスのリセットでもあった。彼は、かつて情熱を注いだ「唯一の趣味」である乗馬の喜びを、異国の地で再発見しているのである。

結論:宙吊りのレガシーとファンの審判

ミルコ・デムーロ騎手の6年間にわたる苦闘は、単一の原因に帰結するものではない。それは、不振時に負債と化したハイリスクな騎乗スタイル、メディアやファンの厳しい視線の下での自信喪失、そして何よりも、日本競馬界の構造的な力学という、複数の要因が絡み合った「パーフェクト・ストーム」であった。強力なエージェント制度と、巨大馬主組織が形成する厳格な序列は、一度流れに逆らった騎手を容赦なく引きずり下ろす強力な底流として作用し、彼の再起をほぼ不可能にした。

オンライン上の反応を鑑みると、彼の苦悩に同情的なメディアの論調が目立つ一方で、特定のレースにおける騎乗への批判的なファンの声も根強く存在する。知識豊富なファンの間での評価は、おそらく二分されているだろう。一方は、変化する環境に自身のスタイルを適応させられなかった騎手と見るかもしれない。しかし、本レポートが提示した証拠に基づけば、より深く、ニュアンスに富んだ見方が可能となる。すなわち、彼は同調を求め、トップ層から一度脱落した者にはほとんど支援の手を差し伸べないシステムによって、最終的に圧倒されてしまった世界クラスの才能であった、という見方である。

デムーロ騎手自身、日本に戻るべきか決めかねていると語る。アメリカでの成功は彼の才能を再証明したが、彼の心とキャリアの歴史は日本にある。彼のレガシーは今、過去6年間のハートブレイクと、新たな始まりの可能性との間で宙吊りになっている。そして競馬界は、最もエキサイティングな才能の一人が、自らの欠点の犠牲者だったのか、それとも異端児に居場所を与えないシステムの犠牲者だったのか、という問いを突きつけられている。

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