第1章 ドーヴィル競馬の夏、その頂点
フランスの競馬シーズンが夏の盛りを迎えるとき、すべての視線はノルマンディー地方の海岸沿いにあるドーヴィル競馬場へと注がれる。その中でも、8月のドーヴィル開催の頂点に君臨するのが、ジャックルマロワ賞である 。2025年は8月17日(日曜日)に開催が予定されており、欧州のマイル路線の勢力図を決定づける重要な一戦として位置づけられている 。
このレースは、ドーヴィル競馬場の名物である1,600メートルの直線芝コースを舞台に行われ、総賞金100万ユーロをかけて3歳以上のトップマイラーたちが覇を競う 。その歴史はミエスク、パレスピアといった数々の名馬によって彩られ、日本競馬界にとっては1998年にタイキシャトルが欧州G1制覇という快挙を成し遂げた記念碑的なレースとしても知られている 。2025年大会は、新たにアガカーンスタッドがスポンサーとなり、その権威にさらなる輝きを加えることとなった 。
しかし、今年のジャックルマロワ賞は単なる伝統の一戦にとどまらない。その背景には、欧州マイル路線におけるひとつの大きな地殻変動がある。シーズン前半を席巻し、世代の王者として君臨していたフィールドオブゴールドが、前哨戦でまさかの敗北を喫し、さらに故障が判明したことで、絶対的な主役が不在という異例の事態に陥ったのだ。この権力の空白は、周到な準備のもと海を渡ってきた日本の精鋭たち、そして王座を狙う欧州のライバルたちにとって、千載一遇の好機をもたらした。したがって、2025年のジャックルマロワ賞は、欧州マイラー界の新たな秩序を築く転換点となる可能性を秘めた、極めて重要な一戦として注目される。
第2章 日本の挑戦:二方面からの強力な布陣
フランスギャロップが発表した当初の登録リストには、日本から3頭という異例の数の馬名が記されており、このレースにかける日本陣営の並々ならぬ意欲がうかがえた 。JRAも正式に登録を発表し、馬券発売を決定したことで、日本の競馬ファンの期待は最高潮に達している 。最終的に1頭が遠征を見送ったものの、残る2頭はそれぞれ異なる強みを持つ、極めて戦略的な布陣となっている。
アスコリピチェーノ:百戦錬磨のグローブトロッター
黒岩陽一厩舎に所属する4歳牝馬アスコリピチェーノは、まさに「グローブトロッター(世界を駆ける旅人)」という称号がふさわしい実績を持つ 。父はダイワメジャー 。今年すでにサウジアラビアでG2を制しており、国際的な舞台での経験値は大きな武器となる。国内ではG1ヴィクトリアマイルを制覇し、日本のトップマイラーとしての地位を確立している 。
彼女のフランス遠征に向けた準備は万端だ。美浦トレーニングセンターで行われた最終追い切りでは、3頭併せの最内から鋭い切れ味を見せ、陣営を満足させる動きを披露した 。黒岩調教師は、夏の暑さ対策も万全であり、馬は良好なコンディションを維持していると自信を見せている 。すでにフランスに到着しており、現地での調整も順調に進んでいると報告されている 。鞍上には、日本を拠点とするフランス人ジョッキー、クリストフ・ルメール騎手が引き続き騎乗予定であり、地の利を活かした騎乗が期待される 。実績、経験、そして陣営の周到な準備。そのすべてが、彼女を優勝候補の一角へと押し上げている。
ゴートゥファースト:野心的なアウトサイダー
栗東の新谷功一厩舎に所属する5歳牡馬ゴートゥファーストの登録は、フランスギャロップが「サプライズ」と評するように、多くの競馬関係者を驚かせた 。父はルーラーシップ 。これまでG1レベルでの出走経験は豊富ではないが、陣営には明確な狙いがある。それは、ドーヴィルの直線コースという特殊な舞台で、この馬の未知なる適性に賭けるという挑戦的な戦略だ 。
その準備過程は、細心の注意を払って進められた。7月28日にフランスのシャンティイに無事到着 。陣営のスタッフは、約31時間に及ぶ長旅であったにもかかわらず、馬が終始リラックスしており、「100点満点」の輸送だったと報告している 。国内での最終追い切りも美浦の坂路でしっかりと行われており、あとは現地で最終調整を行うのみだ 。鞍上には、英国で騎乗経験を積んでいる岩田望来騎手が予定されており、欧州の競馬を知るジョッキーを起用するという点からも、陣営の本気度が伝わってくる 。
表2.1:日本の挑戦 – 登録馬プロフィール比較
特徴 | アスコリピチェーノ | ゴートゥファースト |
性齢 | 牝4歳 | 牡5歳 |
調教師 | 黒岩 陽一(美浦) | 新谷 功一(栗東) |
2025年主要勝利 | G1 ヴィクトリアマイル | – |
海外経験 | あり(サウジアラビアG2優勝) | なし |
プロフィール | 実績上位の正統派マイラー | 直線コースへの適性を問う挑戦者 |
騎手(予定) | C.ルメール | 岩田 望来 |
第3章 欧州3歳世代の激突:スターホースたちの競演
6月11日に発表された初期登録では、全42頭のうちイギリスから16頭、アイルランドから13頭、そして地元フランスから10頭と、欧州の競馬大国からトップクラスの馬たちが名を連ねた 。特に注目を集めるのは、クラシック戦線を沸かせた3歳世代の動向である。
フィールドオブゴールド:傷ついた王者
シーズン前半、この世代の主役は疑いようもなくフィールドオブゴールドだった。英2000ギニーではルーリングコートに僅差で敗れたものの 、続く愛2000ギニー、そしてロイヤルアスコット開催のセントジェームズパレスステークスでは、クラシックホースたちを全く寄せ付けない圧巻のパフォーマンスで勝利した 。これにより、彼は世代最強マイラーの評価を不動のものとした。
しかし、7月30日のサセックスステークスでその神話は崩壊する。単勝1.3倍という圧倒的な1番人気に支持されながら、自らが用意したペースメーカーである150倍の人気薄キラットに逃げ切りを許し、4着に惨敗したのだ 。そしてレース翌日、共同調教師のジョン・ゴスデン氏から、左後脚に跛行が見られたという衝撃的な事実が発表された 。その後の経過は良好と伝えられるものの、次走に予定していたジャッドモントインターナショナルは回避が決定 。ジャックルマロワ賞への出走は極めて不透明な状況となっている。
クラシックの挑戦者たち:ルーリングコートとアンリマティス
- ルーリングコート:チャーリー・アップルビー厩舎が送り出す英2000ギニーの覇者 。ニューマーケットではフィールドオブゴールドを破ったが、アスコットでは雪辱を許した 。しかし、陣営はジャックルマロワ賞ではなく、前日に行われる2000mのG2ギヨームドルナノ賞への出走を示唆しており、マイル路線からは一時的に離れる可能性が高い 。
- アンリマティス:名伯楽エイダン・オブライエン調教師が管理するこの馬は、仏2000ギニー(プールデッセデプーラン)を制したクラシックホースである 。その後のセントジェームズパレスステークスではフィールドオブゴールドの2着、そして波乱のサセックスステークスでは3着に入り、フィールドオブゴールドには先着を果たした 。世代トップクラスと常に互角以上に渡り合ってきたその安定感と、直近のレース内容から、現時点での3歳世代最強マイラーの座に最も近い存在と言えるだろう。
アガカーンの期待を背負う:ザリガナ
フランシス=アンリ・グラファール厩舎のザリガナは、地元フランスの大きな期待を背負う 。仏1000ギニー(プールデッセデプーリッシュ)を制し、続くロイヤルアスコットのコロネーションステークスでも僅差の2着と好走 。レースの新スポンサーであるアガカーン殿下の所有馬ということもあり、このレースへの出走は陣営にとって特別な意味を持つ。今後のローテーションはメイトロンステークスなども視野に入っており、マイル路線での活躍が期待される 。
その他の新星
- カミーユピサロ:アンリマティスと同じくオブライエン厩舎に所属するこの馬は、フランスダービー(G1ジョッケークリュブ賞)を2100mの距離で制したトップホースである 。ジャックルマロワ賞への登録は、中距離の王者としてのスタミナに加え、マイル戦に対応できるスピードをも兼ね備えているかという、クラシックな問いを投げかける。
サセックスステークスの結果は、単なる番狂わせ以上の意味を持つ。それは欧州3歳マイル路線の勢力図を根底から覆す地殻変動であった。絶対王者の不在は、これまで挑戦者の立場にあったアンリマティスやロサリオンといった実力馬たちにとって、世代の頂点を決めるチャンピオンシップへの扉を開いたのである。
第4章 歴戦の古馬勢:経験という名の武器
3歳世代の勢力図が混沌とする中、確固たる実績と経験を武器に王座を狙うのが古馬勢だ。彼らの存在が、レースにさらなる深みと複雑さをもたらす。
ロサリオン:グッドウッドの正統後継者
リチャード・ハノン厩舎が管理する4歳馬ロサリオンは、サセックスステークスでの走りが高く評価されている 。ペースメーカーが独走する中、実質的な先頭集団から力強く伸びて2着を確保 。その内容は、フィールドオブゴールドが万全でなかったことを差し引いても、現役トップクラスのマイラーであることを証明するに十分だった。フィールドオブゴールドが不在となれば、彼がレースの主役となる可能性は極めて高い。
ゴドルフィンの古豪
- トライバリスト:アンドレ・ファーブル調教師が手掛ける5歳馬 。2024年のムーランドロンシャン賞では、シャリンやノータブルスピーチといった強豪を相手に逃げ切り勝ちを収めており、その実力はG1レベルで証明済みだ 。タフなレース展開に強く、どんな相手にも怯まない精神力は大きな武器となる。
グッドウッドの異変:キラット
サセックスステークスを語る上で、150倍の超人気薄で勝利したキラットの存在は無視できない 。彼は本来、僚馬フィールドオブゴールドのためのペースメーカー役であり、レースでは大逃げを打つ形となった。後続の騎手たちの判断ミスもあり、そのリードを守り切った形だが、公式レーティング102という数値は、他のG1級の馬(120以上)と比較すると見劣りする 。この勝利は戦術的な僥倖であった可能性が高いが、この勝利によってBCマイルへの優先出走権を獲得したことは、今後の動向を興味深いものにしている 。
キラットの勝利が浮き彫りにしたのは、直線競馬における戦術的な脆弱性である。ペース判断のミスが、時に絶対的な能力差を覆してしまう。ドーヴィルの直線マイルは、馬群が内外に分かれやすく、ペースが読みにくいことで知られている。この戦術的な不確実性は、常に厳しいペースでレースが進む日本の競馬に慣れたアスコリピチェーノや、直線コースへの適性を見込まれて参戦するゴートゥファーストにとって、有利に働く可能性がある。サセックスステークスの結果は、ジャックルマロワ賞が単なる能力比べではなく、高度な戦術戦であることを示す警告と言えるだろう。
第5章 総合分析と序盤の展望:ブックメーカーのオッズを読む
これまでの分析を統合し、レースの全体像を把握するために、主要ブックメーカーが提示する前売りオッズを見ていきたい 。
- フィールドオブゴールドは、依然として5/2(3.5倍)で1番人気に推されているが、そのオッズには出走への不確実性が色濃く反映されている 。
- ロサリオンは、サセックスステークスでの好走を評価され、11/4(3.75倍)から4/1(5.0倍)で2番人気の座を固めている 。
- 3歳牝馬のクラシックホースであるザリガナ(5/1)、ポルタフォルトゥナ(7/1)、そして3歳牡馬の実力馬カミーユピサロ(6/1)、アンリマティス(10/1)も上位人気を形成している 。
- 日本のアスコリピチェーノは10/1(11.0倍)と魅力的な評価を受けており、一方でゴートゥファーストは33/1(34.0倍)と大穴扱いだ 。
2025年のジャックルマロワ賞は、複数の要素が複雑に絡み合う、近年稀に見る混戦模様を呈している。アスコリピチェーノを中心とした日本の強力な挑戦、フィールドオブゴールドの戦線離脱によって生じた欧州3歳路線の勢力図の再編、そしてロサリオンやアンリマティスといった実力馬たちが欧州最強マイラーの称号をかけて激突する。その結末は、ドーヴィルの夏の空の下で、予測不能なドラマを生み出すに違いない。
表5.1:主要有力馬プロフィールと前売りオッズ(2025年8月上旬時点)
馬名 | 調教師(国) | 性齢 | 2025年主要実績 | 前売りオッズ (Paddy Power) | 現状とコメント |
フィールドオブゴールド | J & T ゴスデン (英) | 牡3 | G1 愛2000ギニー、G1 セントジェームズパレスS | 5/2 | 故障により出走は不透明。回復次第。 |
ロサリオン | R. ハノン (英) | 牡4 | G1 サセックスS 2着 | 11/4 | サセックスSの内容から最有力候補の一頭。 |
ザリガナ | F-H. グラファール (仏) | 牝3 | G1 仏1000ギニー | 5/1 | スポンサー所有の地元期待馬。実績十分。 |
カミーユピサロ | A. オブライエン (愛) | 牡3 | G1 仏ダービー | 6/1 | 中距離王者のマイルへの距離短縮が鍵。 |
アンリマティス | A. オブライエン (愛) | 牡3 | G1 仏2000ギニー | 10/1 | 世代トップクラスと常に好勝負。安定感抜群。 |
アスコリピチェーノ | 黒岩 陽一 (日) | 牝4 | G1 ヴィクトリアマイル | 10/1 | 日本からの最強の刺客。遠征準備は万全。 |
ルーリングコート | C. アップルビー (英) | 牡3 | G1 英2000ギニー | 20/1 | 他レースへの出走が濃厚。 |
トライバリスト | A. ファーブル (仏) | 牡5 | G1 ムーランドロンシャン賞(2024) | 9/1 | 実績ある古豪。展開が向けば怖い存在。 |
ポルタフォルトゥナ | D. オブライエン (愛) | 牝4 | G1 コロネーションS(2024) | 7/1 | G1実績豊富な牝馬。侮れない。 |
キラット | R. ベケット (英) | 牡4 | G1 サセックスS | – | サセックスSの勝利はフロック視が妥当か。 |
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